安芸市のシンボル「野良時計」

 家ごとに時計のなかった明治の中頃、土地の旧家で地主であった畠中源馬氏が自分で時計組み立ての技術を身につけ、歯車から分銅まで手づくりで作り上げた時計台。
この時計台の原型は、当時畠中家の台所にかかっていた八角形の米国製の掛時計で、これを何度も分解しては組み立てて時計の構造を学んだといわれています。
古くから周辺で農作業をしていても遠くから時間を知ることができ、「野良時計」として現在も多くの人々に親しまれています。

ホームページ http://www.city.aki.kochi.jp/life/dtl.php?hdnKey=42(安芸市役所HP)

土居廓中・武家屋敷

安芸城跡

 安芸城跡は、市街地から約2㎞ほど入った土居にあります。安芸城跡は安芸氏代々の居城跡で、ここに初めて城が築かれたのは鎌倉時代の延慶元年(1308年)頃で、戦国時代末期まで安芸氏はここに居住していました。しかし、四国統一の軍を進める長宗我元親との合戦に敗れ、当時城主の安芸国虎は自殺し、家臣は四散しました。
城は、東北に安芸川があり高さ50mほどの小さな丘に築城され城内の広さは1.8ha程度。落城のとき長宗我部勢は安芸川を隔てた城の背後の丘から火矢を攻撃したため、その際に城は焼失しました。
城外をとりまく土塁、濠、大手の枡形の石組は昔のまま残されています。また、山内一豊が土佐入国と共にこの城跡に入った五藤氏が築き、昭和44年に安芸市の文化財に指定された五藤家のお屋敷も城内に残っています。

土居廓中と武家屋敷

土居廓中は現在も武家屋敷が今に残っています。昔のままの町並みに竹やうばめ樫の生垣に囲まれた武家屋敷があり、今もひっそりと当時の風情を残しています。現在土居廓中で唯一、一般公開(無料)されている野村家住宅は現存している建物の中で最も古く、天保ごろ(1830年)建築と推定され、武者隠しといいう3尺程度の壁をもち、玄関脇の平次門を入ると小さな庭があり、その先は菜園となっています。
土佐藩家老の五藤氏が安芸城跡に入ってから次第に廓中の町並みが整備され、それぞれの役割に応じた屋敷が与えられ、現在に残る廓中武家屋敷が成立したと伝えられています。
藩政時代は、農民も商人もこの一郭には居なかったと言われ、明治以降も廓中に入るには頬被りや鉢巻はとったと言われています。

ホームページ http://www.city.aki.kochi.jp/life/dtl.php?hdnKey=1381(安芸市役所HP)

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岩崎彌太郎生家

岩崎彌太郎生家

 安芸市内より約3㎞。郊外の住宅地、井ノ口一ノ宮に岩崎彌太郎生家が修復保存されています。
岩崎彌太郎の先祖は安芸国虎の家臣だったようで、のち長宗我部の安芸支配の時代は長宗我部に仕え、山内氏が土佐入国後は開墾に従事し農業を営んでいました。
この家は、彌太郎の曽祖父 弥次右衛門が郷士の株を売って1795年ごろ建築したもので、建坪約30坪藁葺きの平屋、表が8帖、その脇に4帖半2間、茶の間9帖になっていて、その左が通り庭、通り庭から茶の間の床下をのぞくと芋壷(芋貯蔵穴)がみえます。また風呂と便所は別棟に設置されています。

三階菱と石組

岩崎彌太郎生家の西側と後方にある土蔵の鬼瓦に「三階菱」の岩崎家の紋がつけられていて、現在の三菱のマークの原型といわれています。
また、彌太郎生家の座敷より庭園を眺めると、小さな庭園に石組が配置されています。これは少年時代の岩崎弥彌太郎が天下雄飛の夢を託して、日本列島を模して自分で作ったものだといわれています。

岩崎弥太郎銅像

昭和60年に岩崎彌太郎生誕150年を記念し、有志にて建立。平成27年3月に岩崎彌太郎生家前に移設されました。 像の高さは3.3メートル、台座の高さ1.1メートル。

ホームページ http://www.city.aki.kochi.jp/life/dtl.php?hdnKey=45(安芸市役所HP)

弘田龍太郎曲碑

童謡の里づくり

安芸市内では、郷土出身の作曲家 弘田龍太郎の業績をしのび、童謡の里づくり運動が昭和53年から始まり、市内の名所や旧跡にユニークな曲碑が建立されました。また曲碑建立活動と同時に、市民の合唱やゲストコンサートなどを行う「安芸童謡フェスティバル」や、童謡の里づくり活動が縁で、童謡「赤とんぼ」を作詞した 三木露風の出身地、兵庫県たつの市と全国でもユニークな童謡で結ぶ「姉妹都市」を平成元年4月26日に締結するなど、様々な活動が現在も行われています。

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内原野公園

内原野公園

 内原野公園は、毎年4月になれば約1万5千本のツツジが咲き乱れ、あでやかな色彩の渦に包まれます。この公園には、梅、桜、ツツジ、藤、アヤメ、ショウブと春先から初夏にかけて花の途切れるときがありません。また、3月下旬より5月初旬まで観光協会主催の「つつじ祭り」が開催され、週末にはイベントがあり、多くの人で賑わっています。
この公園は、もとは土佐・山内家の家老で、安芸を治めていた五藤氏が藩政時代より遊園として整備されたもので、その際に多くのツツジが補植されました。

内原野公園には、藩政時代に殿様用の休憩所として建築された延寿亭があります。同建物は茅葺の35坪程度の平屋で、宿泊や炊飯等の設備はなく殿様用の便所があるだけの簡素なものとなっています。 建築は幕末のころで、延寿亭という名前は土佐藩主 山内容堂がつけたと長らくいわれていましたが、第12代藩主、山内豊資(とよすけ)より名前を拝領したとの記録が五藤家に残っています。

弁天池

内原野公園には、江戸時代のはじめ1673~1680年頃、延宝年間に築かれたといわれる潅漑用の池「弁天池」があります。これは、土佐藩家老の五藤氏が領内の開発に力を入れ、財政安定のため増収を図り、新田開発の一環として行われたものといわれています。

安芸市立歴史民俗資料館

安芸市立歴史民俗資料館について

土居廓中の安芸城跡には、書道美術館と併設され歴史民俗資料館があります。収蔵品は土佐藩家老だった五藤家に伝わる美術工芸品や古文書、また三菱財閥の基礎を築いた岩崎弥太郎、「浜千鳥」など数々の童謡を作曲した弘田龍太郎、翻訳小説や大衆文芸の普及につとめ反骨のジャーナリストでもあった黒岩涙香などのゆかりの品など多数の遺品等が収蔵されています。その他には、身近に残る貴重な民具や、安芸市内から出土した考古資料や古文書などが取り扱われています。
安芸市の明治から大正、昭和初期の雛人形などを一同に展示した企画展など、年2~3回企画展が行われています。また、書道美術館も隣接しています。

ホームページ http://www.city.aki.kochi.jp/rekimin/(安芸市立歴史民俗資料館HP)

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伊尾木洞

自然が作り出した天然のタイムマシン、伊尾木洞

安芸市を国道55号線沿いに東へ進み、市街地をはずれたところの道沿いに伊尾木洞はあります。コンクリートの道から一歩踏み出すと、まるで数万年前の時代にタイムスリップしたかのような景色が目に飛び込んできます。
 この洞窟は周辺が海だった頃、波の浸食により出来た天然の海食洞で、高さは約5m、幅は約3mで全長は約40mほどです。その奥は渓谷に続いていて普段は足を浸すくらいの水が流れ出ています。また洞の壁には貝の化石が見られるところもあります。

シダ群落

この洞周辺の壁面と、その先の渓の岸には天然記念物のシダ植物が生えています。主にホウビシダ、ホウライシダ、ノコギリシダ、クリハラン、ハゴロモシダ、シロヤマゼンマイ、コモチシダ等の熱帯性シダ類が中心で、確認されているだけでも40種類ほどのシダが自生しています。1ヶ所に多くの種類のシダが共生しているのはとても珍しいとされており、大正15年にこのシダ群落すべてが国の天然記念物に指定されています。

住所   安芸市伊尾木117
電話番号 安芸観光情報センター TEL:0887-34-8344

安芸市立書道美術館

全国でも初めての書道専門の美術館

“書の殿堂”として全国から注目を集めている書道美術館は土居廓中の安芸城跡にあります。書道美術館は、昭和57年10月に開館し、全国で始めての書道専門の公立美術館としてオープンしました。
安芸市は古く藩政時代より書道が非常に盛んで、また大正後期から昭和にかけ、川谷横雲、尚亭兄弟、手島右卿、南不乗などの優れた書家を輩出しています。
館内には日本書壇を代表する作品の展示はもとより、全国書展や、特別企画展も催され、そのほか書道に関する資料や書籍も充実しています。緊張感のある静寂、墨のかおりの中で、書を楽しみませんか?

全国書展の開催書道美術館では、「安芸全国書展」や「全国書展高校生大会」などの書展が毎年開催されています。全国から1,400点を越す作品が応募されています。書に自信のある方はもちろん、初心者の方も腕試しに応募してみてはどうでしょうか?詳しいことは、下記の連絡先までお問い合わせください。

書道美術館(TEL:0887-34-1613)
ホームページ http://www.city.aki.kochi.jp/life/dtl.php?hdnKey=49(安芸市役所HP)

[お問い合わせ]
一般社団法人 安芸市観光協会
高知県安芸市矢ノ丸1丁目4-32
TEL:0887-35-1122 FAX:0887-35-2818

登り窯 窯焚き〜窯出し

※写真をクリックすると、各ページにジャンプします。

2012年10〜11月 登り窯の様子

2012年3月 登り窯の様子

2011年 登り窯の様子

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